"失望が人生の方向性をえる"

-ヘブライ人への手紙 (번역: 이희진)

 

願うことに落ち込んでいると抜け出せられない。仕事とお金、職場と事業、恋愛と結婚問題に心を捉えている時がある。そのような状況に深く落ち込み、抜けられないように見えた人たちがいつの間にか正気に返る時がある。彼らはどうやって戻ってきたのか。それは失望を経験したからである。

 

願ってきたモノが思ったより満足を与えてくれない。頑張って努力して就職した仕事先ではストレスだけ溜まる。お金を稼ごうとするとまた、お金に心を取り捕まえる。愛する人に会えたと思ったら恋愛の苦労に会う。礼拝と教会の共同体を無視した人の中でまた教会に戻り、礼拝の場に立っている人をよく見よう。彼らが経験した共通点がある。世の中からガッカリしたのである。

 

失望が幸いにつながる。失望を経験しないと間違った道から戻ることは不可能である。膨らんでいる風船は風が抜いてから元の位置に戻ってくる。神様が私たちの人生を針で割る時がある。それは失望を経験する瞬間である。そのような時にはあえて空気をまた入れようとしなくて方向転換の切っ掛けにしよう。

 

モーセは最高のエリート教育を受けた人材であった。そしてその分だけお金も稼げられる位置にいた。しかし彼はエジプト社会の内部で失望を経験したように見られる。彼は結局人生の方向性を変えてまた違う楽しさを探す。”信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待されることを選び“(ヘブライ人への手紙 11:24-25)神様が下さる苦しみさえ楽しく受け入れる。罪が与える楽しさの中で大きな失望を経験したからである。

 

イエス様がこの世に来て楽しさの方向を変えて下さったのである。この世の楽しさはいつか終わりを告げる。それが死である。終わりを迎えて失望する前に新しい楽しさを見せて下った。それが永生、永遠なる生である。十字架を通して永遠な楽しさが保証されている。それだからして覚えよう。イエス様が私たちの人生の死を復活に変えて下さったら、私たちの人生に与えられた失望はまた、違う楽しさのための神様の導きである。十字架によって私たちはこれからこの事実を信じることができる。

 

おもちゃを持って遊ぶときがあるが、またそれが退屈になるのが通常である。そうしなければ高級の楽しさをわからなくなる。軽い楽しさを捨てて、キリストのために苦難を受ける楽しみまで行こう。それが成長につながる。“キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです”(26節)。モーセの道であった。イエス様が歩んだ道である。私も歩むべきである。

+ Recent posts